「デモクラシー」に対する批判的考察(2)

今回も「デモクラシー」について、中川八洋氏の著書『正統の哲学 異端の思想』から見ていきたいと思います。


「デモクラシー」とは「民主主義」?

「『民衆』(demos)の政治参加とその『支配』(crasy)による制度を『デモクラシー』(Democracy)と称する」(p.167)


「Democracyを『民主主義』とするのは甚だしい誤訳である」(p.167)


「デモクラシーは民衆(大衆)が主体であるが故に反・民主的な全体主義を排除する、とばかりに民衆を全体主義への防波堤と誤解するのが日本での通例である。が、真相真実はその逆であった」(p.198)


「民衆の政治参加と『支配』は、政治社会の堕落を不可避とする」(p.167)


「民衆」「大衆」とは

「民衆とは、『モブ』(mob)となり『群衆』(crowd)となり『大衆』(mass)であるから、デモクラシーとは、『モブ』の支配する政治社会、『群衆』の支配する政治社会、『大衆』の支配する政治社会である。だからデモクラシーの政治社会からは高貴な精神や倫理道徳が必ず消失していき人間の腐敗の道を確実にする」(p.167)


「個人であるときの人間より知能も思考も大幅低下する『群衆』が『進化』することなどありえるはずがない」(p.204)


「『民衆』を灯油とすれば、『大衆』はガソリンである、その程度の相違しかない。(中略)引火の確実性や迅速性においてガソリンの方が灯油に優る。これが『民衆』の差異である」(p.174)


「デモクラシーには、政治社会としての発展の可能性は万が一にもない。なぜなら、それはただひたすら衆愚政治(Mobocracy, Ochlocrasy)に堕していくか、しばしば全体主義体制を熱狂的に選択するからである」(p.167)


デモクラシーとは政治家がこのような民衆の投票に生殺与奪の権を握られている制度であるから、それは必然的に政治家がこのような民衆に阿りそれに卑屈にも迎合するしかない」(p.317)


「デモクラシーが、衆愚政治に堕ちるにしろ全体主義に暗転するにしろ、そうなる元凶の最たるものは、デモクラシーが民衆の社会的経済的な平等欲望を正当化する政治制度だからである」(p.169)


「デモクラシーが、政治社会から、法と秩序、ならびに倫理や精神の高貴さ、あるいは優雅と美を奪って、衆愚化動物化を導く、と哲学史上初めて理論化して警告した政治哲学者はエドマンド・バークである(1790年)」(p.173)


「デモクラシーのもつ“負”の問題は二つあって、“負”の第一は政治社会として反倫理化や野蛮化が進展すること、“負”の第二は全体主義体制に暗転すること、である」(p.173)


デモクラシーは全体主義と衆愚政治の母

全体主義(Totalitarianism)は、デモクラシーを母としてその子宮からうまれた『長男』である。同腹の『次男』の衆愚政治の兄貴分に当たる」(p.168)


デモクラシーとはこの民衆神話のうんだ政治体制である。『民衆』に関する第一の神話は、公共的問題に対する合理的な判断力をもっており、政治社会の『進歩』に寄与する『意志』(能力)をもつ、とする。第二の神話は、第一の神話から敷衍されるものだが、デモクラシーの制度そのものこそが、国家権力の過剰な肥大化やその暴走を阻む、とする」(p.175)


「(オルテガは)民衆に存在するのは無知とこれへの無恥、および『平等欲望だけである、とする。民衆は政治を判断する知的能力がゼロでありマイナスであり、民衆の『意志』は政治社会の野蛮化を進めるだけである、とする」(p.175)


「『大衆まず自由法と秩序が皆目理解しがたいものであるし、次にみずからに義務を課す自己犠牲の精神などはまったく持つことはなく権利自己の利益のみを際限なく要求する。『大衆』とは、『貴族エリート)』の対極にある人間である。孔子や孟子が指摘する『君子』とは逆の人間である」(p.176)


「『大衆』の行動は、その教養も低く視野も狭く社会や国家を論じる能力もいささかも有さない。にもかかわらず『大衆』は厚顔にもみずからのその低俗にして凡庸な意見を国家に強制したいと情動することを特徴とする。だから、『大衆』の支配する国家の政治は低俗化と凡庸化を年々加速させていくことになる」(p.177)


「オルテガは大衆の義務感欠如のことを、『大衆人はただ欲求のみを持っており自分には権利だけがあると考え義務を持っているなどとは考えもしない。つまり、大衆人はみずからに義務を課す高貴さを欠いた人間であ』ると定義している」(p.178)


「民衆は真実や美の追求とか善悪の峻別とかに何ら関心はないから、デモクラシーの政治社会では真美もまた消えていく」(p.312)


「デモクラシーとは、(中略)端的に言えば、政治社会からを除去して的に処理する制度である」(p.312)


「大衆」と「エリート」

「『群衆は、熟考し推理の能力を欠いているために、真実らしくないことを弁別することができないのである』。しかも、『大衆』とは一定規模以上のマスメディア(あるいは独裁者)の宣伝に対しては、『催眠術師の掌中にある被術者の幻覚状態に似た状態に陥る』。『大衆の軽信、これを治療する方法はまったくない」(p.195)


「『大衆』の支配する政治社会は、バジョットの痛罵するように、『教養に対する無知の支配”となり、知識に対する数の支配”となる』」(p.177)


「現代の政治状況は、ル・ボンの指摘に従えば、『政治家に至っては、世論を指導するどころか、ひたすら追随しようと考え、世論に対する気がねが、往々恐怖にまでなって、政治家の行動から一切の安定性を奪いとって』いる」(p.179)


「世論に対して自由社会の国家のエリートは屈服してはならず、対抗するのがエリートの宿命的な職責である。エリートは世論に耳を傾けるべきではあるが世論に決して盲従してはならない。あくまでも世論を指導し世論を糺すのが政治エリートである」(p.179)


「孔子も言う、(中略)大衆の好悪(世論)に左右され惑われてそのまま受け容れてはならない、世論の奥にある物事の真なるもの正なるものをいつも省察しなければならない、と」(p.179)


「ル・ボンも、『幾多の文明はこれまで少数の貴族的な知識人によって創造され指導されてきたのであって決して群衆のあずかり知るところでなかった』と指摘する」(p.176)


「デモクラシーの政治社会とは、国家と政治が『大衆』に闖入(侵略)され支配(占領)される。では、どうすればよいのか。まず政治の制度や仕組むによってそれを防ぐのがその第一の方策。第二の方策は、政治家や官僚などの国家のエリートがエリートとしての矜持と意識を回復して、『大衆と対抗することである。(中略)第三の方策は、国民の意識改革とエリート育成のための教育の全面改革である。『精神の貴族を育成するための平等を排除しての真正のエリート教育の導入である」(p.180)


「第一の方策について(中略)まずわれわれが最小限死守すべきものは主として二つある。一つは間接選挙を基本とする政治制度を決して直接選挙にしないことであり、第二は議会は二院制を原則としてその上院については『真正のエリート』のみで構成されるよう最大限の工夫がなされるべきことである。特に前者の代議制とは、デモクラシーが必然的に転落していく腐敗の極小化のために永遠に守るべき制度である」(p.181)


直接参加とは政治の腐敗を阻む最後のブレーキを取り外す制度であるという認識が日本にはあまりにも不足している」(p.182)


社会や制度によって個人の幸福がもたらされるものではないのに、大衆は、社会や制度にこそ個人の幸福のすべてがあるとして現在の個人の『不幸』は社会制度のせいだと考える。このために、大衆はみずからが不幸だとの認識において社会に対する憎悪と怨念を煮えたぎらせ噴火させる」(p.184)


「古い制度を完全に変更して、よりよいものに替えるべきであるという考えを即座に放棄しなければならない」バジョット


以上、「デモクラシー」について理解が深まりましたでしょうか?

保守主義の教科書

当ブログでは「保守主義」(Conservatism)とは何か、「保守主義」に基づく様々な見方など、日本における「真正の保守主義者」である中川八洋(やつひろ)筑波大学名誉教授の著書から紹介していきます。

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