今回は、中川八洋氏の著書『保守主義の哲学』より、デイヴィッド・ヒューム(David Hume、1711~1776)の「懐疑的保守主義」とも言われる哲学・道徳論について確認してみたいと思います。
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「ヒューム哲学は、道徳に関しても最も不変の普遍的な理論化に成功している」(p.314)
「美徳とは、記憶にも記録にもない古い過去からの祖先の行為によって形成されたもので、理性によるものでないという、根本的に正しいヒュームの道徳哲学は、21世紀日本における道徳の再生に裨益すること大であろう」(p.326)
「人間は理性的存在ではない」
「『人間は理性的存在ではない』こそがヒューム哲学の神髄であった。デカルト以来の、理性(人間の知力)至上主義の狂気がヴィールスのごとく蔓延する近代にあって、理性の限界と理性の(情緒に対する)下位性という常識がたえず再認識されていなくてはならない」(p.324)
「理性主義のいかなる理論からも、倫理・道徳を擁護する知恵や知識は生まれてこない」(p.325)
道徳と理性に関するヒュームの言葉
「道徳は情緒を喚起し、行動を産んだり防止したりする。しかるに、理性自身はこの点において無能である」
「理性は(道徳に対して)完全に無力であって、いかなる行動や情念も決して防止したり産出したりできない」
「理性は道徳的義務を……産み出すことは断じて不可能である」
「美徳と悪徳とは理性のみによって……発見することができない」
「道徳性は、判定されるというより、いっそう適切には感じられる」
「われわれは、美徳からうける印象が快で、悪徳から生じる印象は不快である、と宣言しなければならない」
「女子中高生の売春という悪徳を悪徳だと拒絶するのは、絵画や音楽における美醜の区別をする感性と同じである。このような健全な感覚(感性)が社会全体に共有されていることが美徳ある文明社会の条件であり、このような正しき感性を磨き向上させること(=教育)が文明社会の維持にとって必要となってくる」(p.329)
「道徳が理性に基づいていない以上、それらの合理的な説明は不可能である。そもそも伝統的な道徳に従っての美徳の鍛錬にあたって、その理由を説明する必要もまったくない。……『あいうえお』をたたきこむ言語(国語)の教育と同じである」(p.330)
「慣習(黙約)こそは言語・法・道徳・貨幣の発展の土壌である」(p.332)
「法と道徳は、言語や貨幣と同じく、意識的考案物でなく、(自然的に)成長した制度」ハイエク
「道徳的行動を習慣化させるのが道徳教育である」(p.330)
宗教の必要性
「伝統ある既成宗教の助けを借りずとも倫理・道徳が健全に存続しうると考えるヒュームの宗教論は、ヒューム自身のような一部の真正のエリートを除く一般民衆のことを考えれば、現実離れした空論であるとしかいいようがない」(p.314)
「既成宗教が、道徳を習慣化し、人格の道徳性を向上させることにヒュームは気づかなかった」(p.315)
「保守主義というより『懐疑的保守主義』のヒューム哲学は、宗教論を除き、21世紀日本に復活されるべきである。日本はヒュームを『忘れられた』ままにしてはいけない」(p.333)
以上、道徳や理性(万能)主義については、改めてさらに詳しく見ていきたいと思います。
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