「平等」に対する批判的考察

左翼や共産主義者らが声高に叫ぶ「平等」について、中川八洋氏の著書『保守主義の哲学』と『正統の哲学 異端の思想』からの抜粋を中心に、その批判的な考察をご確認頂ければと思います。


「平等」「平等主義』の問題点

平等は専制主義全体主義のもとにおいてのみ可能である。そして社会が平等を望むならば、社会は不可避的に専制主義におもむかねばならぬ。平等、平等の幸福、平等の飽食を求めるならば、当然、最大の不平等、つまり、多数にたいする、とるにたらない(数の)少数(社会主義政党)の暴君的支配を招かずにいない」ベルジャーエフ


「平等は、二つの傾向をうみ出す。第一の傾向は、人々を相互独立的にバラバラの個(アトム)に導くから、突然に無政府状態になることがある。第二の傾向は、もっと時間がかかるが、もっと人知れず、しかし確実な道を辿って人々を隷従に導く。第一の傾向は気づかれるから抵抗される。しかし、第二の傾向(全体主義体制への移行)には人々はその方向に流されていることを感知できない(から抵抗なく実現する)」トクヴィル


「トクヴィルは、平等化社会では個人は埋没して、顔のない人間、知力喪失の人間へと堕していくことを喝破している」(『保守主義の哲学』p.278)


「人間の平等化が、その進展につれて、人間からそれぞれの人格を抹殺するのである」(同上 p.292)


人間は能力においても運命においても不平等に生まれ不平等に育つ。自由社会は義務教育や選挙権などの『平等』は与えても、その人格そのものの平等化は決してしないし、決してしてはならない。人格の平等化は人格の破壊になるからである」(同上 p.293)


平等主義……は完全に破壊的である。……個人の努力の方向に関する選択の機会を単独で個人に与えることができる信号を、個人から奪ってしまうだけでなく、自由人があらゆる道徳ルールを遵守する気になれる唯一の誘惑、すなわち仲間から受ける差別的な尊敬、をも排除してしまうからである」ハイエク


自由と平等とは両立しない

自由と平等とは両立しえない。自由は『目に見えぬ』精神の高さにおける美しき行為になりうるものであり、平等は『目に見える』物質的なものか、あるいは『目に見えぬ』社会的権利などの、堕落した精神の持ち主でも感得できる次元のものである」(同上 p.291)


「たとえば、善悪を峻別し善を選択する自由は真正の自由であるが、平等はこの逆に善悪の区別を否定し相対化するから、人間が善を選択する自由を妨害し、それから人間を逃避させる。……このため究極の平等社会は、ソ連や北朝鮮のように、真・善・美の消えた暗黒の闇となる。それは自由の中核である、善悪/真偽/美醜という『質』を差別する意志と能力とを抹殺した当然の結末であった」(同上 p.291)


自由と平等の両立は本質的に不可能である。しかも、平等が自由を駆逐する危険が高い。つまり平等は自由を侵害し自由を腐敗させていく」(同上 p.281)


「平等が自由を排斥する」トクヴィル


「自由と平等の間にあるものは、調和でなく、和解できない敵対的矛盾である」ベルジャーエフ


「平等」は個人の原子化を促進する

「平等とは、社会の個人個人を(相互の上下的な従属関係を潰して)水平的にそれぞれ独立させるものであるから、それはこの個人個人が相互に孤立し原子化することになる。つまり、平等社会では個人個人を結合させている紐帯が溶解し個人個人はバラバラとなる。(『正統の哲学 異端の思想』p.300)


平等社会では祖先や子孫に対する責任とか自己犠牲の精神を喪失することである。つまり世代間の精神的紐帯の喪失が生じること。第二は、宗教離れが生じて、(子孫のことだけでなく)自分の死後を含めて将来を考えず今日や明日の現在だけに没頭する現世至上主義あるいは刹那主義が支配すること」(同上 p.318)


「平等社会では各人は相互に孤独的であり独立的であるため(原子化しているため)、固定的な人間の紐帯は希薄化し、あげくに消滅する。そればかりか、個人個人の利益追求が最大化される社会(「個人主義」の社会)であるから、未来に物質的幸福のみが求められ過去は忘却されていくから、過去が後代に語り継がれることは万が一にもない。かくして、名誉も献身も無価値的となり無意味となる。過去が大切にされない、そのような社会において高貴さは呼吸を続けることはできず、かくして死滅する」(同上 p.320)


文明の政治社会に対する平等の弊害

一、平等が自由/法/道徳を侵害すること。また、政治社会を永遠に分裂させ抗争させ“法と秩序”の安定を阻み、それを破壊すること。

二、この一、の進展の終着として全体主義に至る、その温床となること。

三、平等が政治社会から高貴さ/真・美・善を溶解し消し去って、その俗悪化・低俗化を進めること。

四、平等が政治社会を「改革の恒常化」とも言うべく永久に「革命」し続け、伝統を破壊し祖先を含めて過去を忘却せしめること。その結果、自由/法/道徳が破壊されること。(同上 p.299)


一国内における国民間の憎悪と嫉妬の熾烈な闘争をもたらす『平等』思想」(同上 p.155)


「民衆は『平等向上否定となる、恐ろしい『平等のパラドックス』などわからない。そればかりか、民衆は他人の“低落”による「平等」化も欲求する。富裕者の富を強制的に奪って喜ぶ。(中略)“低落による平等欲求とは人間の最も卑しく下劣な欲求である。しかし、『平等』のドグマはこの反道徳を正当化する。『平等には道徳を破壊する麻薬効果がある。『平等のドグマは人間を卑しくさせさもしくさせついには人間の動物化を進める」(同上 p.170)


平等主義は高貴な美徳ある自由にとって最大の敵である。T・S・エリオットはこのことを、『あらゆる人間があらゆる事柄に平等の責任をもつごときデモクラシーの社会は良心ある者(=自由を尚ぶエリート)には圧制(=自由の剥奪)となり、その他の者を放縦に委ねる』と指摘する」(同上 p.325)


人間の精神の高貴さや人格の気高さは平等からうまれない自由からうまれる。自由の価値の根本はここにあり、平等の本質的有害性もここにある」(同上 p.326)


「自由社会は、『機会の均等』という教育の水準を低下せしめる平等主義のドグマから脱却して、高貴な政治社会の創造的再生を目指しての教育制度の抜本的転換をする必要がある。公共心に満ちる自己犠牲の『貴族的な精神』のエリート養成教育に教育の重点をシフトさせることである」(同上 p.326)


「共産社会とは、『労働者』(プロレタリアート)が奴隷的・囚人的水準においてその『平等』を実現する平等社会(「この世の地獄」)のこと、である」(同上 p.171)


「『完全な平等は無責任の普遍化』と述べるT・S・エリオットの名言を待つまでもなく、平等社会では責任義務が美徳となりえず無責任が決定的に横行する」(同上 p.315)


「ハンナ・アレントは、『平等化と中間組織の絶滅この二つが全体主義体制を誕生せしめる車の両輪である、と指摘する」(同上 p.188)


「不平等は、法/自由/道徳の源泉であり、真/善/美の母胎である」(同上 p.322)


以上、「平等」の問題点をさらに深く理解するために、「自由」とは何か(自由論)についてまた確認していきたいと思います。

保守主義の教科書

当ブログでは「保守主義」(Conservatism)とは何か、「保守主義」に基づく様々な見方など、日本における「真正の保守主義者」である中川八洋(やつひろ)筑波大学名誉教授の著書から紹介していきます。

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