今回は、「自由」とは何かについて、中川八洋氏の著書『保守主義の哲学』を中心に見ていきたいと思います。
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真正の自由と偽りの自由
「トクヴィルは、バークと同様自由(真正の自由)と放縦(偽りの自由)を峻別している」(p.282)
「日本では自由を“放縦”と思い違いしている。日本は自由を動物的劣情を正当化する道具におとしめている」(p.294)
「バークは、ミル的な『放縦の自由』『悖徳の自由』を、峻厳に『規律(秩序)ある自由』『美徳ある自由』と区別した。自由だからといって一緒にすることを絶対反対した」(p.377)
ミルの『自由論』
「J・S・ミルの『自由論』の『自由』は、日本の学界では自由の定義として普及している。しかし、ミルの『自由』は、第一に、英国を社会主義社会に改造する(=緩やかに革命する)手段としての『偽りの自由』である」(p.371)
「他人の自由に迷惑をかけない限り、個人は自らの『主権者』であるから、何事にも『自己決定』できる『自由』があるというのである。このミルの自由の論理は実は、一人の妻と二人の夫の同居という前代未聞の不倫家族を弁明する理屈でもあった」(p.372)
「『放縦の自由』を勧めるミルは、……道徳否定論を継承した思想家であった」(p.374)
「ミルの主張する『伝統・慣習から解放された自由』は、自らその淵源を絶って自壊する」(p.375)
「ミルの『自由論』とは、……社会全体を無徳と悖徳の『放縦の自由』の巷と化すための、劇薬であった」(『教育を救う、保守の哲学』p.151)
「アクトンは、ミルのことを『リベラルというよりもラディカル』といって、『ミルの自由は必ず、相互に他人の権利侵害をさせるから、結局は無政府状態の闘争が生まれる』と指摘しています(『自由の歴史』)。つまり、アクトンは、ミルに従うと『他人の自由を侵害した方が勝者となる社会になってしまう』と、その転倒思考に呆れ果てています」(『教育を救う、保守の哲学』p.100)
「自由」に対するバークの言葉
「私は人間らしい(manly)、道徳的な(moral)、規律ある(regulated)自由を愛します。……ある狂人がその治療のための暗い独房の保護の拘禁から脱走して、光と自由の享受を回復したとき、その自由という理由だけで、何も考えずにこの狂人を祝福してあげるべきでしょうか」バーク
「秩序も美徳もないフランス革命の自由は、悪徳と混乱以外の何物でもなく、自由でない」バーク
「自由とは、私が意味する唯一の自由とは、秩序ある自由だけです。そして、自由は秩序と美徳をもったとき自由となりうるのです。秩序と美徳のない自由は自由ではありません」バーク
「自由はそれ自体、最高政治目的である。この目的のための手段では断じてない。自由は、文明社会であれ個人の生活であれ、それらの最高の目的を追求できるようにするための安全装置である」アクトン
自由と道徳
「道徳と自由は、伝統と慣習の土壌から成長したものでコインの裏表である」(p.375)
「道徳の支配なくして自由の支配をうちたてることはできない」トクヴィル
「人間は、自らの欲望に道徳的な鎖をまきつけて抑制しようとする精神に正確に比例して、文明の自由を手にすることができる」バーク
「自由はできる限り道徳と結びつけよ(keep liberty as close as possible to morality)」アクトン
「自由と道徳は不可分の関係にある」(p.375)
「自由とは『美徳ある自由』のみが“真正の自由”である」(p.324)
自由とは
「自由の中核である、善悪/真偽/美醜という『質』を差別する意志と能力」(p.291)
「自由とは人間における霊的要素」ベルジャーエフ
「宗教的信仰の欠乏は、人間を隷従的にするし、人間は自由であろうとすれば神を信仰しなければならない、と私は考える」トクヴィル
「“智恵を欠いた自由”とはいったい何でしょうか。“美徳なき自由”とはいったい何でしょうか。それらはすべての害悪のなかで最大の害悪です。悪徳です。狂気です」バーク
「フランスの思想家・哲学者の自由論はことごとく、一言でいえば『自由は自由を意志すれば手にできる』と考えており」(p.270)
「自由とは地球上あまねく人間に附与されるものではなく、『良き統治の国』の国民に限定されて享受されうる国家単位のものである」(p.45)
「“良き統治こそ自由の砦”となる」(p.45)
「自由は『法の支配』の下で最も確実に保障されうる」(p.346)
「『法の支配』とはこの“法”を各世代が相続することを前提とする以上、『法の支配』という憲法原理を堅持して相続していくことが、“法”と不可分である自由が確実に相続されることにつながる」(p.379)
「自由は、人間が(意志を離れて結果を予測もせずに)なしてきた行為の堆積から生まれた、“自然的に発展成長した法(制度)”でしか、体現できないのである」(p.357)
「意志から超越した、自然的な人間の行為から生まれた秩序こそが“法”である」(p.357)
「“自由”とは、伝統と慣習が大切に『相続』されている社会のみにおいて顕現される」(p.375)
「高貴な精神と品位をもつ貴族階級の存在こそが“国民の自由の砦”である」(p.268)
「デモクラシー下では、自由は、努力と犠牲を惜しまない少数の真のエリートの関心に限られていく」(p.282)
「自由は貴族的であって、民主的でない」ベルジャーエフ
「自由は一般大衆には理解できないものである」(p.294)
「民衆が常に保有しているものは、平等のパトスであって、自由のパトスではない」ベルジャーエフ
「『人による政治』を排した『法による政治』こそ自由である」(p.46)
「政治には二タイプある。“強制力による政治(government of Force)”と“法による政治(government of Lows)”である。前者が専制体制であり、後者を自由の統治という」ハミルトン
「最優越権力の制限が“自由”の要諦である」(p.276)
「政治が自由を擁護することによって、個人は各個人しかわからぬ幸福を自由に追求できる」(p.109)
「自由とは不平等を要求する権利である」ベルジャーエフ
「自由とは自己に課す(他者との)不平等の要求であり、自由社会とはこの個人の不平等への努力を擁護する社会である」(p.46)
「自由とは、不平等を求めて自らに課す高貴なる義務感に基づく質的向上の行為をいう」(p.291)
「それ故に、不平等への欲求なしに、最も正しい最も美しい最も高貴な、本当の人間をつくりあげることはできない」(p.291)
「財産の平等はありえない。自由のあるところ不平等が存在する。不平等はまさしく自由があるから不可避的に発生する」ハミルトン
「道徳、自由、財産は、分かち難い三位一体のものであり、この三つの柱があって正しい自由社会が成立する」(p.47)
「財産と自由とは不可分のものであって、私有財産の擁護のシステムなくして、個人の思想信条・信仰の自由は擁護されえない」(p.71)
「伝統と慣習の土壌に生命をえて生育している自由は、改革こそが損傷を与えるから、自由社会においては改革は自由の危険な天敵である」(p.71)
「『法の支配』や国家権力の制限は自由を擁護するための憲法原理であるが、自由そのものは憲法原理でない。憲法は“自由”に使える道具である」(p.287)
以上、「自由」の深遠な内容について、さらに理解を深めて頂ければと思います。
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